鬼は外、福は内〜。
今年の節分は2月2日でしたね。
節分は立春の前日とされているので、おやっと思った方もいらっしゃると多いんだろうなと。ふと、私のような人間もいるのではないか。
さて、我が家の節分は、鬼を変わりばんこにやり、全員が鬼になるのが恒例だ。
なぜかというと、鬼は人の心の中にいるからさ。
というのはさておき、子どもたちが鬼をやりたがるからですね、単純に。
それにしても、節分用の豆まきを販売するメーカーさんはとても親切だと感心する。
豆まき用の豆を買うと、鬼のお面がついてくるので、親としては準備の手間が省けるので助かる部分もあるからだ。まぁ、幼稚園で自分で作ったりすることもあるので、どの家庭でも十把一絡げとはいえないが。
いろんな鬼の面があっても、バラエティに富んでいるのは楽しいことだ。
我が家で豆を買ってくる役割は、大体が妻なのだが、買う豆が毎年違う。
ちなみに今年は、豆ボ○ロだ。
小さい子でも誤飲しないように個包装されたものにしたという最もらしい理由をつけてはいるが、毎年、違う豆が購入されているのを私は覚えている。
その時に、妻が食べたい豆を買うのが、我が家の慣わしである。これも立派な節分の行事ですよね。
妻が買ってきた豆。その商品もただ袋に入っているだけでなく、豆を入れる枡形の箱になっているから驚きだ。
私の小さい頃などにはなかったであろう商品で、よく考えられているなぁと感嘆するとともに、自らの老いと時代の流れを感じてしまう自分がいる。
年をとったなぁ。
人それぞに節分の思い出があるだろうが、幼少期においての節分の思い出といえば、私は成田山の御福豆だ。
学校でもらったり両親が用意したりする豆とは別に、祖母が成田山から頂戴した豆を一緒に食べていたのを鮮明に覚えている。
確か、筆書きで御福豆と書かれた白い紙の包、御朱印、そして、その中に炒った大豆がそう多くはない量で入っていた記憶がある。
「これを食べると1年健康に過ごせるのよ」と優しく、教えてくれた。
固くなった薄皮に、ちょっぴり苦い、そして口の中に残る御福豆。
豆まき用の豆とは異なっていて、尊さというか、荘厳なものだと、子どもながらに感じて食べていたなぁと、ふと思い出す。
毎年、祖母が貰いに行った御福豆を食べる。それが私の節分の記憶だ。年を重ねるにつれ、食べる豆も増えるのだが。苦味を苦にならないようになっていったのが、成長なのだろう。
それとは別に買ってきたり、貰ってきたりした豆は大体、我が家では落花生だったが、西日本と東日本でまく豆の種類も違うようなんですね。
節分の前には毎年、ネットに記事が上がっていますよね。
ちなみに豆まきには、諸説あり、大陸から宮中に伝わった厄除け、無病息災を願う祭事が節分・豆まきというらしいが、詳しいことはここでは割愛させていただきます。(私も詳しくは知らないので、興味があれば自身で調べていただくのもいいのではないかと思います他力本願ですみません)。
さて豆まきの起源と変遷はさておき、現代の日本でも残っている行事としての「豆まき」。
太陽暦と太陰暦、二十四節気、いろいろ入り乱れていて、私にももうなんのこっちゃか正直わからない。
元々の発祥意味からはずれているのかもしれないが、ただ、春を待つ、そして、日々の健康や生活の安寧を願って行う節分とは素敵な行事じゃありませんか。
風習、習慣、文化それぞれの意味と成り立ちをたぐると忘却と構築が垣間見れるのが面白いところだと思います。
話を戻して、我が家の豆まきだが、いつも私へ投げかけられる豆の勢いが他と違う気がする。
鬼よりも豆をまくものの方が強いのですよ。どっちが鬼だかわからない。
皆、心に鬼がいる。もちろん私の妻にも…
「鬼嫁、うわ鬼バ⚪︎…」と私の心の中のつぶやきが聞こえているかのように、妻から放たれる豆が…今年は個包装だからそんなに痛くない!
これ、豆な!ようやく主題に辿り着きましたかさが。
さて、年の数だけ昔より一回りも二回りも多くなった豆をつまみながら、飲む今日のビールが美味い。